離れがたい気持ち
いよいよ、産休が近くなってきた。
いかんせん、仕事が面白くなってきてるからこそ、ますます離れがたくなってきてしまっている。
1年弱前に新しく始まった仕事も、少しずつ見えかたが変わってきて、理解度も高まってきたところ。
もっと仕事したい、と思う気持ちがある一方で、子どもに集中したいという気持ちも。
なにはともあれ、離れがたいものがある、ということは幸せだな、と思う。
信用と保身
仲の良い言葉だ。
信用できそうな人についていく、
言葉を信じる。
それは保身のため。
でも、それではいつまでたっても同じ井戸からは出ることはできない。
可能性がありそう、おもしろそう。
何かわからないけど、惹かれる。
かけてみよう。
前者にしても後者にしても私自身が、そこまで行けてないだけの話。
後者の人間として、リーダーシップをとることができるようになるためには、どんな力と心意気が必要なんだろうか。
後者のような人を、上に持ち上げていくためには、自分にどんな力が必要なんだろうか。
あー悔しい。
笑顔が素敵な人になりたい
どんな人、どんな人生を送りたいのか、とよく考える。
仕事、家庭、社会…
自分の価値が最大になるのは、どんな環境でどんなことをすることなんだろうと考える。
考えて、動いて、動いているときは悩まなくて、たどり着いて、また考える。
基本、死ぬまでいつまでも考えるものなんだろうと思うから、それでいい。
根幹のところ。
人として、この時代この世に生を受けた人間として、私はどんな風に生きたいのかというえば。
素敵な笑顔が生まれる世界で生きたい。
日常的な笑顔もそう、席を譲ってもらったときに笑って、お礼できている?
子どもに笑顔を向けることできている?
なんとなく、笑顔をだすことに抵抗がある人もいるけれど、笑顔ほど、人と人の垣根を乗り越える力が強いものはないと思う。
そして、笑顔は年を重ねていけばいくほど、味がでてくると思う。
私は、おじいちゃんやおばあちゃんの笑顔が好き。
屈託なくて、とても尊厳があって。
私もそんな風に笑えるようになりたいし、毎日の笑顔も大切にしたい。
まずは、ついついぶっきらぼうになってしまう夫へ、最高の笑顔を…。
だな。笑
考えを言葉にする
自分が考えていることを言葉にする。
それができなければ、考えている意味が半分ぐらいになっちゃう。
(まったく意味がないという人もいますが、私はそこまでとは思わない。考えてることが蓄積されて、溢れ出すこともあると思うので。)
今日は、グループコーチングの体験会だった。
少し予想していたものとは違ったが、こまかな設計がされていて、その仕組みから、体験会から、学ぶことが結構あった。
今日イチの学びは、
「ファクトとデータだけ伝える。
考え方が身についていれば、それでそこから行動が生まれる。」
言葉の発信者は、ライフネットの出口さんのよう。
ファクトとデータがあっても答えがでないなら、考え方をトレーニングすればよい。
考え方があっても答えがでないなら、それはファクトとデータが足りないのかもしれないから、より集めればよい。
人の行動は、他人では変えることはできない。
本人が変わるほかないのである。
そこには、説教じみた訓示はいらないのである。
式を終えて
昨日の卒業式、行ってよかった。
私は元来、式とかに興味がない。
何よりもそこに至るまでの過程が大切だから、終わり方はどうでもいいと思ってしまう。
昨日は夫が、一緒に行こうよ、と言ってくれたから行けた。
久しぶりに共有する時間は、これが私を醸成してくれていたんだな、と実感。
そこには、エネルギーの高い人たちがたくさんいて、それぞれに思い悩み行動している。いろんな想いがあるんだけど、
自分を成長させたい、会社をよくしたい、社会をよくしたい、世界をよくしたい。
その想いは同じ。
そんな時間であらためて、心に残った言葉。
リスクをとれ。
わかっているつもりでも、実際打席に立つと忘れてしまう。
リスクとリターンは同じ。
試練はチャンス。
試練とは自分がしたい道を進んでいる証だ。それがなければ、それはまわりに迎合しているものとなってしまっている。
自分の道を自分の足で歩んでいる証拠。
志士は8割討ち死にする。そのときは、それでいい。そこからまた這いつくばればいいだけの話。
チャレンジしつづけろ。
挑み続けることが、自分を前に進めてくれる。
私の決意表明は、
個人の力が120パーセント生かすことができる社会にすることで、世界を幸せにする。
さぁ、今日からまた一歩。
卒業
卒業シーズンから大分遅れるが、私は明後日卒業式をむかえる。
2015年当時、福岡で営業をしていた私はいつも何かに焦っていた。
責任ある仕事を任せてもらったり、チーム内での位置づけが中間になってきたり。
立場が変わり、新たなアウトプットが必要になっているにも関わらず、出せるアウトプットが一様で、大きな壁がくるとフラストレーションを感じるばかり。
答えをだす、立ち向かう力がない自分に憤っていた。
自分にとって、仕事は一生付き合っていく存在。
だからこそ、自分にとって充実していて楽しめものに、仕事をしたい気持ちも大きかった。
キャリアの先取りをしたい気持ちもあった。結婚・出産をしたい自分はいつかどこかで、既存のキャリアから離れる時が来る。そのときに、負けない力がほしかった。
MBAに出会ったのは、本当にひょんなことだった。
今までもなんとな知っていたけれど、自分にとっては縁遠いものだと、勝手に思っていた。
弟の結婚式で、彼の会社の社長さんから、「MBAぐらい持っていて当たり前だよ。」と言われた。そんなもんか、と思った自分はさっそくMBAを検索して、明後日卒業する大学院に出会った。
決めてから早いのは私のいいところで、まず単価科目を1科目受け、そのまま受験。
合格して4月から通学、というタイミングで福岡から東京へ転勤になった。
それに合わせて、福岡校から東京校へ転校した。
1年目と2年目前半は、とにかく大変で楽しかった。
基礎科目を受けまくる。土日は授業と予習復習で終わるし、平日も朝早く起きて夜遅く寝た。レポートの時期は眠くて眠くて仕方なかった。
でも、日々の授業は刺激的で、自分で悩んで考えたほど、クラスでの学びは多かった。
ただ、私の性格上、しっかり学びを記録に残していけなかったのは、後悔。
大人になって、勉強することが楽しいと日々感じていた。
2年目の後半になってくると、応用科目も増えて、またそれは面白かった。
実務への反映も多く、日々の仕事の変化もあった。
ただ、このころからモチベーションがさがりがちで、チャレンジングな科目取得はしなかった。(例えば苦手な金系とか。)
いま思えば、ノーリスクなんだから、その環境に身を置けばよかったのに、とも思った。
3年目を迎えると、自分自身のことが忙しくなって、なかなか勉強中心には動けなくなったが、それでもクラスでの学びやそこにいる人たちからの学びによって、自分が奮い立たされていたのは確かだ。
エネルギードリンクのような存在だった。
後悔しているのは、グループワークがあるクラスにもっと参加すればよかったということ。
私は自分の意見を言うのが苦手だ。その根拠を作ることも苦手だ。
終わってみると、私が考えていた視点が大切だったりすることは結構あるのに、それを言えない自分がいた。
否定やリスクを恐れないで、自分の考えを伝える力をそこでトレーニングできたはずであった。
ちょうどクラスが落ち着いてきた3年目の中ごろに、会社をあげてのプロジェクトにアサインされた。
そう、打席に立つことができたのだ。
そのプロジェクトは今の継続中だが、クラスでの学びを実践する場を与えてもらったんだと感じている。
やり方や考え方が自分の学びとは異なることが多かった。
そこで、学びは一つのものでしかないことを実感したし、一方で大学院で学んだマインドは生かすことができるとわかった。
仕事に対して志をもつこと、自分事にすること、視座を高くもつこと、人を動かすこと、具体と抽象を行き来すること、論点を論じること、インプットを続けること…。
そして、問いを立てること。
経営戦略、マーケティング、アカウンティング…それらで学んだことは、自分の思考のヒントになったり、議論に迷わないための道しるべになった。
どうやって考えたらいいのかわからないことがたくさんある。
そのときは原点に帰ってみたり、誰かに助言を求めることができる。
2015年の私が今この状況にいたら、戦い方がわからなくて、まわりの言うとおりにしか自分をもっていけなくて、役に立たない自分だったと思う。
3年間のトレーニングを経たことで、戦う前からあきらめたり嘆くことは、まったくなくなった。
常に考え、常に道を探す自分になることができた。
3年間、350万を払って私は、ファイティングポーズをとることができるようになった。
これから先もいろんなチャレンジがでてくるが、それらに対していつもファイティングポーズをとることができる、と信じることができる。
打たれても、あきらめたくなっても、道を開く力を。悩んでも答えにたどり着こうとする粘り強さを、身に着けることができた。
人生は自分で面白くできる。
自分の楽しいを感じる大切さ
なんだか鬱々としたり、嫉妬する気持ちや、ネガティブな気持ちが強くなってるときは、一度立ち止まってみたほうがよい。
なんで自分がそう感じているのか?
なにが自分をそうさせているのか?
外部要因であることは、結構少なくて、なんだかんだで自分の中で生み出していることが多い。
妊娠して、これからを考えたときに、どこかで制限してしまっている自分がいる。
子どもを1番に考えなきゃ、とかなんだか世間の「よい」に振り回されている自分がいる。
それを否定するわけではないが、それはそれ。
自分は自分。
自分にとっての「よい」を大切にしなくちゃ、どんどん辛くなっていく。
甥っ子と遊んでいるとき、甥っ子が嬉しそうにしたん瞬間は、お母さんである義妹が自分の嬉しさを表現して笑顔になったときだった。
子どもは、小さな人。
私たちよりもずっと感覚が豊かで感性が鋭い人。
その人たちを前にして、偽りをつくったらすぐにバレてしまう。
私は、いろんな役割を持つ私を楽しみ、笑顔が日々溢れる心を養うこと。
それは、子どもにとっても自分にとっても豊かにするものであるはず。
笑顔の琴線を豊かに、日々を楽しもう。