子どもを抱く幸せ
自分は健康だと思い込んできた。
欲しいと思えば子どもができると思っていた。
それは大きな大きな勘違いだった。
検診してわかったこと。
子宮の年齢が、自分の年齢より随分上だった。
医師から体外受精の言葉もでた。
それぐらい、私には残された時間がない。
ずっと子どもを産むと思ってたし、それを望んでいたつもりだった。
子どもを抱く幸せを感じたい…。
心の整理はついて、時間がないなら早く行動しようと、前を向いている。
体の変化に弱く、メンタルも引っ張られやすい自分が、不妊治療と仕事を両立できるの不安だが、でも同じように頑張っている人たちは沢山いる。
私の頑張るが、だれかの励みになることもある。
前を向いて進んでいこう。
自分をゼロ地点におく
いろんなことを学んだり、
いろんな経験を積むと、
ついつい自分を高いところに置きたくなる。
お調子者で、人から好かれたい自分は特にそうだ。
そんな状態で新しいことをはじめると、辛くなるし、大概うまくいかない。
私は、新しいことを楽しむために、
自分をゼロ地点にもどす。
意識してもどす。
そして、自由に発言し、つぶされ、立ち上がり、またつぶされる。
そうして、新しい世界へ歩んでいく。
自分のいきたい場所へいく
東京で暮らすことに、違和感を感じていた。
会社が近いから、だけで暮らす場所を決めていた。
おもえば34年間、自分の意思で、暮らす場所を決めたことはなかった。
親の意思、会社の意思…
自分で自分の生きる場所を決めるというのは、
なんと気持ちのいいことか、と思う。
海と山と大切な人たちが、近くにいる場所へ移動した。
会社へは往復200分の通勤。
1日の時間の中で、13.8%をしめる。
でも、よかった。
生きている心地がするし、気持ちいい。
これから、もっと面白いことも起きそうだ。
日々、無意識に自分で選択しているが、
意識を持って自分で決断していくということは、なんとまぁ気持ちのいいことなんだろう。
ヒトカンケイ
1人のヒトの内側には、大きな宇宙があると私は思っている。
ヒトの器が大きい・小さいとあるけれど、それは自己認識の大きさの問題で、ヒトそれぞれに大きい小さいはないと思う。
自らの宇宙のまだ見ぬところへ、一歩ずつ勇気を出して踏み出すこと、踏み出すために自分との会話を大切にすることが、自己認識を大きくするのだと思う。
何も意識しないでいると、ヒトは自分の経験という星をたよりに、親からの愛という駱駝に乗って、宇宙を漂ってしまう。
駱駝から降り、まずは自らの足で立つことでまず見えてくることがある。
自分を進ませ、かつ彷徨わせていた駱駝から離れて、自らの責任と自由で初めて生きることができる。
そして、そこから、裸足の足に靴をはかせてもよい。
もっと遠くに行きたければ馬に乗ればよい。
もっと深まりたければ、潜ればよい。
歩いても、走ってもよい。
宇宙の端はここだ、と自ら決めてもよい。
宇宙に終わりはない、と自ら決めてもよい。
上を向いて歩いても、下を向いて歩いてもよい。
泣きながら歩いても、笑いながら歩いてもよい。
宇宙はすべてを包括する。
自らと宇宙の関係なのだ。
自分をいかす
自分の傍らに、いつも置いておきたい本に出会った。
西村佳哲さんの「自分をいかして生きる(ちくま文庫)」である。
今まで私はマザーテレサ氏の本を傍らに置いていた。
何かに迷ったり、心が落ち着かないとき、本を開きそこに在る言葉に自分を投影してきた。
そんな存在となる本に出会えたことが、純粋に嬉しく思う。
まだ、心がざわざわしているので落ち着いて、また読みたい。
>本人の潜在的な「なにか」をまわりの人間が感じ取って、動いてくれることが往々にある
私は、こういうまわりの人達に恵まれてきた。この言葉に出会った時に、思い出したお顔がたくさんあり、幸せな気分になった。
>「はじめればはじまる」ということ。逆にいうと「はじめないかぎり、何もはじまらない」
自分を生きるということを、はじめるかはじめないか。はじめてしまえば、はじまるが、はじめなければそのまま死ぬ。
>ただでさえ分かり合えない人間が、嘘とまで言わないにしても不確実な会話を交わしあっていたら…
わかりあう、という言葉のなかにも多くのレベル感があるが、そうそもそも人は分かり合うことなんてないのである。それは人と人が離れることを言っているわけではない。違う次元で、人と人は溶けあったり共鳴したりしびれたりする。
>自分自身・自分・他者
自分自身は宇宙だ。自分はこの世の中に存在している。宇宙である自分を、存分に宇宙で生かして、そんな自分自身と現世を自分という存在がつなぐ。
>死ぬまで自分をいかして生きることが仕事なのではないか?
人生100年の時代がきているなかで、おのずと人間はそういう生き方に目を向けていくのではないだろうか。土もなく風もなく緑のそよめきや、陽の光がないところで人は生きていけない。いつも同じようなモノがあふれる世界にはもう飽きた。
自然とともに、いつも違う自分といつも違う毎日のなかで、自分をいかして生きたい。
世界の小売店に触れたい
横軸と、縦軸。
今、世界中にはどんな小売店があるんだろう。
歴史的に小売店ってどんな風に存在したんだろう。
小売店。
小さく売る店。
すごく好きな響きである。
私は、そのお店から半径5キロの世界でその場所にとって必要な場をつくりたい。
自分の住む近くに、安全で安心で面白い食べ物や生活用品を買うことができる場があったら嬉しい。
季節感があって、ついでにそこに座っている初老のお母さんが、梅酒のおいしい作り方を教えてくれたら、なおさら嬉しい。
コンビニや、アメリカ的な大きなスーパーがたくさんあるけど、行くと意外と何も買うものがなかったりする。
小さいけど、ちゃんと、そこで、息づいて、呼吸している場所をつくる。
無力である喜び
新しいことは、
自分の無力さを痛感させてくれる。
自分の思考の浅さに嫌気がさし、
自分の能力のなさに立ち止まってしまう。
でも私は、自分が無力だと感じる場を求める。
自分の、いま在る力でできることは、
そう。そこまでのことなのだ。
もちろん、そのなかにより深みを見出したり、そこでの思考の成長を促すことも、大切である。
でも、いまの私には向いてない。
あぁ。
力がないと感じ、具体的に気づき、焦る。
打開策はひとつ。
今の自分ができる、アウトプットにつながる行動をすること。
そのために、たくさんインプットする。
今までとは、少し違うインプットをする。
それは、私の脳という土壌の肥料となる。